横浜に「mark is みなとみらい」という商業施設がある。施設ができたての頃、その中にあったスノーピークでリュックが欲しくなった記憶がある。結局買わなかったのだけど。どんな形であったか、どんなところに惹かれたのかは一切覚えていない。
そんなただ酸っぱい記憶を私に思い起こさせたのがダディ・ブラウン氏である。氏がピークとおっしゃるように生活の充実ぶりが窺える。
今が人生のピークに違いない - いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう (hatenablog.com)
30歳ぐらいの時分だったらそんな発言を冷めた目で見ていたかもしれない。羨望と嫉妬の眼差しでハンカチを食い千切っていたかもしれない。しかし、今の私は「幸せそうで素晴らしいなあ」と心からうれしく思うのである。不思議である。
断言しよう。今が氏のピークなわけがない。氏はこれからもピークを更新し続ける。数年後にはその名を知らぬ人はいない存在になっていてもおかしくはない。
カレーのピーク
氏に媚を売っているわけではないのだが、これ以上「いよっ大統領★」を続けていたら仕舞にはそうなってしまいそうなので、一旦氏の話題から離れるとする。
何分カレーのブログ故、カレーの話で恐縮だが、私はカレーのピークに到達した(と認識した)ことがある。その時はこれ以上美味しいカレー作れないよ!と思った。
しかし、その思いは杞憂であった。作れば作るほど、また違った頂に到達するのである。調味料と作る手順は変えていない。であるのに目指すべきところが見えてくるのである(「見えてくる」というのは視覚的というより感覚的なものな気がする)。頂は一つではないと気付くのだ。
例えば、今まで使わなかったものを使ってみたり、肉の種類に応じて火の入れ方や煮込み時間を変えてみたり、焼く野菜に応じてフライパンを変えてみたり、不要と思った工程を削ってみたり…料理をする人にとっては当然のことかもしれないが、そういった細かな部分を変えるだけででき上がったカレーも表情を変えるのである。
そんなの当たり前なのでは?と思われるかもしれないが、登っている途中には気づけないものなのだ。頂にたどり着いて落ち着いて周りを見渡した時に漸く気づく。
さらには自ら到達したものに限らないことにも気づけるのだ。「カレー」以外の頂も見える。他の料理にも頂はあるし、料理というジャンルの外側にも頂がある。途方もないと思えるのかもしれない、その場所に留まろうとすればよりそう思うだろう。でも、それは面白いのだろうか?何を守りたいのだろうか?そうして新しい景色が見たいという気持ちがだんだんと強くなり、そこではじめて拘りや固執を手放せる。
本日のカレー
なんだか偉そうになってしまったが、またカレーを作ったのでアップしたいと思う。
・・・
閑話休題
というところまで書いたのが312日前のことである。その後のダディ氏の順風満帆ぶりはここで語る必要はないだろう。
氏に陰ながら熱いエールを贈りたかったのだが、思いを焦がしに焦しすぎて発癌性物質のように成り果てたため、御蔵入りとなっていた。その後PCが限界を迎えたこともあり、私生活で使用するIT端末の主軸をPCから主軸をiPadに移し、補助的に買った折りたたみキーボードの操作に慣れず、使わなくなってしまった。
ではなぜ、それを今このタイミングでわざわざ引っ張り出してきたかと言えば、「復活の半蔵」に尽きる。彼がまた書き始めているのだ。
オーバーサイズブームに生かされている - みんな集まれ半蔵門
正直に言えばもう帰ってこないと思っていた。息子と半蔵門線に乗った折「もう、彼は星になってしまったのかもしれぬ。そして、半蔵という漢がいたことを半蔵門線に乗るたびにこうして思い出すのだろうな。」と過去の人に思いを馳せるような気持ちになっていた。
それがまさかの復活である。私も香ばしいものを書いて足並みを揃えねばなるまいと重い腰を上げることにした。彼は以前、悪魔と闘うほどの激務であると公言していたが、仕事のピークをすぎたのであろう。こちらにはこれ以上の仕事のピークが訪れぬことを願いたい。
そうして、私は折りたたみよりマシなキーボードを購入する決意をし、そのキーボードが届いた今、こうしておよそ1年前の続きを書いている。
おわりに
持つべきものは友である。相手が友だと思っていなくとも、私にとってはかけがえのない友である。使い古された言葉だが、不惑を迎えて惑いに惑っている今、その言葉のエッセンスの欠片が漸く分かった気がする。