夏である。一人暮らしの時分、夏と言ったらスイカバーであった。休日早朝むくりと起きて、部屋中のごみを集めてごみ収集所に捨て、その足で近所のまいばすけっとを訪れてスイカバーの箱を買い込んで部屋にこもっていた…ような気がする。
夏はやっぱりスイカバー。スイカバーにハマっていたあの頃。 - 結婚することも育休をとることも夢にも思わなかったあの頃 (tonymctony.com)
あの夏はもう来ない。そして私はもうスイカバーは買っていない。スイカバーを買うなら、小玉スイカを買ってしまう。甘くてとっても美味しいのだ。ここのところ、会う人会う人にそんな話ばかりしている。
フルーツ習慣
早いもので息子が小学生になった。前回の記事では年長さんだったのに、次の記事では小学生である。また次の記事では中学生になっているかもしれない。
いつの頃からか「食後のフルーツ」が我が家の定番になった。スーパーに買い物に行った折、息子が所望したのが始まりであったか。食べてみたいというものは食べてみたらいい。家計は食に全振りしているので、好きなだけ買ってあげやう心行くまで食べるがよいという、妻曰く「おじいちゃん並みの財布の緩さ」という私の特性の故である。
好きなだけ買って冷蔵庫に置けば、いずれは腐る。腐ると当然食べられなくなる。腐ると捨てるしかなくなってしまう。捨てるのは悲しい。なので必要量だけ買うということも経験で覚え身についたのだから、悪いことではなかったのだろう。
なにより、果物の美味しさに気づけたのはよかった。旬のものの美味しさ、素晴らしさ万歳。
小玉スイカ
そして、この夏は小玉スイカブーム到来である。湧いているのは私だけのようである。息子は味は好きだが種を厭って食べるのに時間がかかるのが気にかかるようである(早く食べて遊びたいのである)。ゆえに、種の少ないところを所望する。私は種の少ない部分を切り分け息子に与え、種のボリュームゾーンを自らの分とする。
正直、侮っていたのだ。いつものことだが、私は種々様々なものを侮りすぎである。毎回痛い目に遭っている。小玉スイカは小さいのに1000円近くする。それならば他の果物でもよいだろうと。
子どもの頃の記憶でも、スイカは確かに美味しいが、甘い部分は限られ、外皮近くの黄緑の部分が多い印象であった。手も濡れる。べたべたする。種もある。美味しいが、面倒である。私は不器用で食べ方が下手なのだった。そんなネガティブなイメージも一緒に掘ってしまった。
しかし買ってみてどうだろう。黄緑の部分がとても少ないため、とても食べ応えがあり、赤い部分が最初から最後まで甘くておいしいのである。いつの間にこんなことに…?それとも私の記憶が誇張されていただけ?とにかく、とても美味しかったのだ。意識をUpdateしていかないと時代に取り残されてしまう。そのことを改めてスイカで学んだ次第だ。
夏野菜カレー
この夏の暑さを超えるぐらい、熱く語りすぎてしまった。本題に戻ろう。このブログはカレー粉でカレー作ったら記事をアップすることが趣旨であった。恐ろしいことを話すと、まったくその趣旨を守れていない。多分100回ぐらいサボっている。
サボったところで誰かに怒られるものではないから、また今日から仕切り直して続ければいいのである。そしておそらくその意思は緩い。
今回はポークカレーライスを作った。いつも通り、焼き野菜とトマトを載せた。トマトの季節は終わりのようである。春から初夏にかけて盛り上がり、そのあとナスにバトンタッチするのである。「夏」にもいろいろあるのだなと、ここ数年で漸く気づけた。結婚するまで知ろうとしなかったことだ。
とうもろこしだって歯に挟まるから嫌いだった。あれは私の食べ方が悪かったのである。今では大好きだ。
終わりに
次は秋に記事を書くのかもしれない。それは次の秋かもしれないし、「砂漠」のように何年か後の秋かもしれない。ただ、気持ちとしては一つ書きたいことがあるのだ。そう遠くないうちにもう1記事書きたいと思っている。
果物売り場には梨が現れ出した。葡萄もピークを迎えるだろう。次の果物、息子は何を選ぶだろうか。私はまだ小玉スイカを食べていたい(しかし、スイカの季節も終わりが近づいているようである)。